小学6年生で新聞に載った60cmのキツウオ|破れたタモから抜けた、忘れられない一匹
実家で見つけた、新聞と写真と魚拓
実家へ帰った時、昔の新聞記事と写真、そして魚拓をあらためて撮影してきました。
そこに残っていたのは、小学6年生だった私が釣ったキツウオの記録です。この魚には「キツウオ」や「イスズミ」などの呼び方があり、私の地元では「キツ」と呼ぶことが多い魚です。魚拓には全長60センチ、重量3.7キロと記され、新聞にも私が釣った一匹として掲載されていました。
かなり昔の出来事なので、当日のことを最初から最後まで鮮明に覚えているわけではありません。出発前に何を話したのか、どんな天候だったのか、どのくらいの時間釣りをしていたのか。そうした細かな部分は、もうほとんど記憶に残っていません。
それでも、今もはっきり覚えている場面があります。3人のウキが海面に並んでいたこと。どのウキに当たりが出るのか、みんなで話していたこと。その直後、真ん中にあった私のウキが消し込んだこと。そして、取り込みの途中で、魚が破れたタモの穴から一度抜けてしまったことです。
新聞や写真、魚拓が残っているから分かる事実と、今でも自分の中に残っている記憶。この二つをたどりながら、今回は子どもの頃に釣った一匹について書いてみます。
実家でこの資料をあらためて見たことで、当時の記憶をすべて取り戻したわけではありません。むしろ、覚えていないことの多さにも気づかされました。それでも、残っている資料を一つずつ見ると、忘れていた一日の輪郭だけが少しずつ戻ってきます。
新聞の記事を読めば、当時の出来事が第三者の文章で残っています。写真を見れば、自分と魚の大きさの差が分かります。魚拓を見れば、魚の形と数字がそのまま残っています。そして、そのどれにも書かれていない部分を、自分の記憶が補っています。

釣りの原点ではなく、子どもの頃の記録に残った一匹
このキツウオを、私の「釣りの原点」と呼ぶのは少し違います。
私は3歳半くらいの頃から釣りをしていました。小学生の頃は、毎日のように竿を出していた時期もあります。だから、小学6年生で釣ったこの魚が、私を釣り好きにした最初の一匹だったわけではありません。
すでにその頃には、釣りは特別な行事というより、生活の中に自然にあるものでした。学校が終われば釣りへ行き、休みの日にも海へ出る。魚が釣れれば嬉しいし、釣れなければ次はどうするかを考える。子どもの頃からずっと、そんな時間を重ねてきました。
それでも、このキツウオは、子どもの頃の釣りの中でも特に記録として残った一匹です。
新聞に掲載され、写真が残り、魚拓も二枚取られました。しかも、そのうち一枚は今も実家に残っています。長い時間が過ぎ、当日の記憶の多くが薄れていても、目に見える形で残っているものがあります。

だから今回の記事では、この一匹を釣り人生の始まりとして語るのではなく、子どもの頃の釣りの中で、新聞と写真と魚拓に残った特別な記録として振り返ります。
釣りを長く続けていると、すべての釣果を同じように覚えているわけではありません。大きな魚でも細部を忘れていることがあります。反対に、魚の大きさよりも、誰と釣ったのか、どんな失敗があったのかという場面だけが強く残ることもあります。
今回のキツウオは、大きさだけでなく、取り込み時の出来事が記憶に残った魚です。もし何事もなく一度のタモ入れで船へ上がっていたら、今ほど鮮明には覚えていなかったかもしれません。
破れたタモから抜けた。それでも魚はつながっていた。この二つの出来事が、新聞や魚拓の数字とは別に、自分の中へ残り続けています。
小学6年生の春休み、次は中学生になる頃
この釣行は、小学6年生の春休みでした。小学校を卒業し、次は中学1年生になる時期です。今から考えると、本当に昔の話です。記憶が断片的なのも無理はありません(笑)。
釣行したのは、私と親父、そして親戚のおんちゃんの3人でした。
利用したのは貸し舟です。船は船外機艇で、2級船舶免許を持っていた親父が操船しました。現在の遊漁船のように船長がポイントへ連れて行ってくれる形ではなく、自分たちで貸し舟を借り、自分たちで海へ出て釣りをするスタイルです。
貸し舟を借りる場所には、食事処のような施設もありました。そこには後に、私が釣ったキツウオの魚拓が飾られることになります。
この場所には何度も通っていました。今回のキツウオだけを狙って一度だけ訪れた場所ではありません。親父と親戚のおんちゃんとの3人で釣りをし、グレなど持ち帰れる魚を100匹以上釣ったこともあります。それは当時の記録になったと覚えています。
ただ、その大漁の日については、詳しい場面をほとんど覚えていません。何をどう釣ったのか、誰が何匹釣ったのか、帰ってから何を話したのか。分からないことを想像で埋めることはできません。
覚えているのは、この貸し舟屋へ何度も通い、3人でたくさんの魚を釣った経験があったこと。そして、その中で新聞や魚拓にまで残ったのが、今回の60センチ、3.7キロのキツウオだったということです。
親父が船舶免許を持っていたからこそ、貸し舟を借りて海へ出ることができました。子どもの自分にとって、親父が操船する船に乗って釣りへ行くことは、珍しい一度きりの体験ではなく、当時はそれが当たり前に近い感覚でした。
けれど、現在あらためて考えると、自分で船を動かし、海へ出て、子どもに釣りをさせるというのは簡単なことではありません。安全を考え、釣る場所を決め、帰る時間まで判断する必要があります。
私は今、1級小型船舶操縦士の免許を持っています。だからこそ、当時の親父が担っていた役割を、以前より具体的に想像できるようになりました。小学6年生の自分は釣りに夢中だっただけかもしれません。しかし、その時間は、親父が船を操船してくれたから成立していました。
記事には「釣果はさっぱり」とあるけれど
当時の新聞記事には、私のそれまでの釣果について「さっぱり」といった内容が書かれています。
ただ、私の記憶では、その日まったく何も釣れていなかったわけではありません。小型のグレや、ほかの魚は釣っていました。
もちろん、60センチ、3.7キロのキツウオと比べれば、小型の魚は新聞の記事では大きく扱われにくいでしょう。記事としては、大物が釣れるまで目立った釣果がなかったという流れの方が分かりやすかったのかもしれません。
ここで大切なのは、新聞が間違っていると主張したいわけではないということです。新聞記事は、限られた紙面の中で出来事を分かりやすく伝えるものです。一方で、実際に釣りをしていた自分の記憶には、小型のグレなどを釣ったことが残っています。
新聞に残っている記録と、自分の記憶には少し違いがあります。それもまた、昔の出来事を振り返る面白さの一つです。新聞には新聞の切り取り方があり、自分には自分が覚えている場面がある。どちらか一方だけがすべてではなく、両方を合わせることで、あの日の釣行が少しずつ見えてきます。
新聞記事だけを読めば、終盤までほとんど釣れず、最後に突然大物が来たように感じるかもしれません。私の記憶では、小型のグレなども釣りながら時間が過ぎ、最後に大きなキツウオが掛かりました。
この違いは、記事を書くうえで隠す必要はないと思っています。むしろ、当時の新聞記事をそのまま紹介しながら、自分が覚えている部分も正直に添える方が、昔の出来事をより自然に伝えられるはずです。
終盤、3人のウキが海面に並んだ
その日の終盤、私たち3人のウキが並んでいました。
どのくらいの距離で並んでいたのか、周囲の海がどんな色だったのか、波がどの程度あったのか。そこまでは覚えていません。ただ、3人のウキが並び、私のウキが真ん中にあったことは覚えています。
みんなで、
「どれが当たるかな」
というような話をしていました。
釣りをしている時には、こうした何気ない時間があります。魚が釣れていない時でも、並んだウキを見ながら話したり、次にどこへ仕掛けを入れるか考えたりする。大きな出来事が起きる前ほど、振り返ると普通の時間だったりするものです。
その時も、特別な予感があったわけではありません。3人のウキが並び、誰のウキに当たりが出るのか話していた。その次の瞬間、真ん中にあった私のウキが海中へ消し込みました。
これが、今も残っている一番鮮明な始まりです。
今でも釣りをしていると、ウキやライン、竿先の変化を待つ時間があります。釣り方が変わっても、「次に反応が出るのはどこか」と見ている感覚は共通しています。当時の3人も、並んだウキを見ながら同じ期待を共有していたのでしょう。
その中で、自分のウキだけが消えました。何十年も前の釣行でありながら、この場面が残っているのは、何気ない会話から一気に状況が変わったからかもしれません。
真ん中のウキが消し込んだ
ウキが消し込んだ後、どのように竿を立て、最初にどれほどの引きを感じたのか。細かなやり取りまでは、正直に言えば覚えていません。
新聞記事や魚拓には、魚の大きさや重さが残っています。しかし、竿の曲がり方や手に伝わった重さは、写真や文字だけでは完全には戻ってきません。
それでも、60センチ、3.7キロのキツウオです。小学6年生の自分にとって、簡単に寄せられる魚ではなかったはずです。
当時の仕掛けは、新聞にハリス2.5号と記されています。現在の感覚で見ても、3.7キロの魚を相手にするには、決して余裕のある太さではありません。
魚を寄せるまで、どれほど時間がかかったのかは分かりません。親父や親戚のおんちゃんが、どんな声をかけていたのかも覚えていません。ただ、魚は切れず、針も外れず、船の近くまで寄ってきました。
そして、ここからが、この一匹について今でも忘れられない場面です。
現在の私は、ジギングで青物や大型魚を狙います。魚が掛かれば、ラインの強度、ドラグ、フックの掛かり方、船との位置関係など、さまざまなことを考えます。小学6年生の自分が、どこまで考えてやり取りしていたのかは分かりません。おそらく、今ほど細かく判断していたわけではありません。
それでも魚を切らさずに寄せた事実は残っています。釣りでは、経験や道具だけでなく、最後まで魚とつながっている時間そのものが重要です。この一匹は、その先に予想外のタモ入れが待っていました。
破れたタモから、一度魚が抜けた
取り込みでは、親父が船に備え付けられていたタモを使いました。ところが、そのタモは破れていました。私たちは、そのことに気づいていなかったのでしょう。親父が魚をすくい、これで取り込めたと思った次の瞬間、魚がタモの穴から抜けてしまいました。
一度は終わったと思いました。
それでも、魚が外れませんでした。
ハリスも切れませんでした。
ここまで寄せた魚が、目の前でタモから抜ける。針が外れても、ハリスが切れてもおかしくない場面でした。まして、タモが破れていて、その穴から魚が抜けるなど、普通なら想定していません。
それでも、ハリス2.5号は切れず、針も外れませんでした。一度タモから抜けたキツウオを、もう一度寄せることができました。
この「終わったと思ったのに、まだつながっていた」という場面だけは、長い年月が過ぎても記憶に残っています。釣りを続けていると、魚の大きさや数以上に、取り込み直前の出来事が強く残ることがあります。この一匹は、まさにそういう魚でした。
タモへ入った時点では、取り込みは成功したと思ったはずです。そこから魚が抜けるのは、成功したと思った瞬間に状況が逆戻りするようなものです。そのままもう一度寄せることができたからこそ、最後の取り込みにつながりました。
もう一度寄せて、今度こそ取り込んだ
タモから抜けた魚をもう一度寄せ、親父が再びすくいました。
二度目の取り込みがどのように成功したのか、破れた部分を避けたのか、別の角度からすくったのか。そこまでは覚えていません。ただ、最終的に魚は船へ上がりました。
全長60センチ、重量3.7キロのキツウオです。小学6年生の自分が、ハリス2.5号で掛け、一度は破れたタモから抜けながらも、切られず、外れず、最後まで取り込めた一匹でした。

魚を船へ上げた直後に、どんな気持ちだったのか。嬉しかったことは間違いありませんが、当時の言葉までは残っていません。親父や親戚のおんちゃんが、どんな表情をしていたのかも覚えていません。
けれど、写真を見ると、その魚が自分の体に対してかなり大きかったことが分かります。新聞を見ると、その出来事が記事になるほど珍しい一匹だったことが分かります。魚拓を見ると、60センチ、3.7キロという数字が今も残っています。記憶だけでは消えてしまっていたかもしれない一日を、残された資料が補ってくれています。
今の自分なら、取り込みに成功した後、ラインやハリス、フックを確認するはずです。どこに傷が入っていたのか、どのように掛かっていたのかも気になります。しかし、当時の道具がどうなっていたのかは残っていません。分かるのは、最後までつながっていたという結果だけです。
釣りでは、その結果がすべてを決めることがあります。一度タモから抜けても、船へ上がれば釣果として残ります。外れていれば、何十年後に新聞や魚拓を見ることもなかったでしょう。わずかな違いで、残る記録は大きく変わります。
新聞に載り、魚拓は二枚取られた
このキツウオは、新聞に掲載されました。
どういう経緯で新聞社へ話が伝わったのか、取材の時に何を聞かれたのか、掲載された新聞を初めて見た時にどう思ったのか。そこは、もう覚えていません。それでも、自分が小学6年生の時に釣った魚が新聞の記事になったという事実は残っています。
さらに、魚拓は二枚取られました。
一枚は実家に残っています。今回、実家へ帰った時に写真を撮ってきた魚拓です。そこには魚の形とともに、日付、全長、重量が記されています。
もう一枚は、貸し舟屋さんに飾られていました。貸し舟を借りる場所には食事処のような施設があり、その中に私の釣ったキツウオの魚拓が飾られていたのです。
同じ一匹の魚拓が、家と貸し舟屋の二か所に残りました。
当時の自分は、そのことを今ほど特別には感じていなかったかもしれません。子どもの頃は、魚が釣れたこと自体が嬉しく、新聞や魚拓が何十年後まで残る意味までは考えていなかったでしょう。
しかし今振り返ると、自分が釣った一匹が家族の記録としてだけでなく、その貸し舟屋にも飾られたことは、とても印象的です。その場所へ通っていた人が魚拓を見たこともあったかもしれません。誰が釣ったのか知らなくても、60センチ、3.7キロのキツウオの魚拓として目にした人がいたかもしれません。
自分の記憶が薄れていく一方で、魚拓はその場所に残り続けていました。魚拓を二枚取ったということは、この魚が家族にとっても、貸し舟屋にとっても、記録として残す価値のある一匹だったのでしょう。
現在は写真や動画で釣果を残すことが簡単になりました。スマートフォンがあれば、その場で何枚でも撮影できます。当時は今ほど手軽ではありませんでした。だからこそ、新聞、写真、魚拓という形で残った記録には、現在とは違う重みがあります。
記録が支える記憶、記憶が埋める記録
今回の一匹には、三つの目に見える記録があります。新聞記事、当時の写真、そして魚拓です。
新聞には、出来事が文章として残っています。写真には、小学6年生の自分と、釣り上げた魚が一緒に写っています。魚拓には、魚の大きさと形が残っています。それぞれが同じ出来事を記録していますが、役割は違います。新聞だけでは、自分の体に対して魚がどれほど大きかったのかまでは分かりにくいです。写真だけでは、正確な全長や重量は残りません。魚拓だけでは、誰と釣りへ行き、どのような出来事があったのかは分かりません。三つがそろうことで、一日の記録が立体的になります。
そこへ、自分の記憶が加わります。3人のウキが並んでいたこと。自分のウキが真ん中だったこと。「どれが当たるかな」と話していたこと。そのウキが消し込んだこと。破れたタモから魚が抜けたこと。新聞にも魚拓にも、この場面は詳しく残っていません。それでも、自分の中には残っています。
資料だけでは分からない部分を記憶が補い、記憶だけでは曖昧な数字や事実を資料が補っています。今回の記事は、この両方があるから書くことができました。
一方で、昔の釣りを記事にする時に難しいのは、覚えていない部分をどう扱うかです。読み物として考えれば、出船時の空気や、魚との細かなやり取り、帰港後の会話まで描いた方が、物語としては盛り上がるかもしれません。しかし、私は覚えていないことを、覚えているように書きたくありません。
当日の天候は分かりません。海の色も分かりません。どのくらいの水深で、どのような餌や仕掛けだったのかも、新聞や手元の資料で確認できない部分は断定できません。帰港後に何を食べたのか、魚をどう持ち帰ったのか、新聞社へ誰が連絡したのかも覚えていません。だから、この部分は無理に埋めません。
分かっていることは、新聞、写真、魚拓に残っている事実。そして、今も自分が覚えている、あの終盤の場面だけです。それだけでも、一匹の記事を書くには十分だと思っています。むしろ、記憶のすべてが残っていないからこそ、今も残っている場面がどれほど強かったのかが分かります。
実体験を記事にする時、分からない部分を想像で補えば、文章は簡単に増やせます。しかし、それでは自分の記録ではなくなります。今回は、覚えていないことを正直に書くことも含めて、当時の釣行を残したいと思いました。
写真を撮るために実家の資料を見直したことが、今回の記事を書くきっかけになりました。実家に残っている物は、そこにあることが当たり前になり、普段はあらためて見ないことがあります。しかし、何十年も残っている新聞や魚拓は、それ自体が大切な記録です。今後さらに時間が過ぎても、この記事と一緒に残しておきたいです。
親父が操船した貸し舟での時間
今回の釣行を振り返ると、魚だけではなく、親父が操船していたことも重要な記憶です。
当時の私は、親父が2級船舶免許を持っていることを、今ほど特別には考えていませんでした。貸し舟を借り、船外機艇を動かして海へ出る。子どもの自分にとっては、親父と釣りへ行く時の自然な流れだったのかもしれません。
しかし、自分が船舶免許を持つようになった今は、見え方が変わりました。船を操船する人は、釣りだけを考えているわけではありません。周囲の状況を見て、安全に移動し、船を止め、帰港まで管理する必要があります。
今回のキツウオを釣ることができたのも、親父が船を操船し、その場所へ連れて行ってくれたからです。取り込みでも、親父がタモを持ちました。一度はタモの穴から魚が抜けましたが、最終的にはもう一度すくい、船へ上げてくれました。
自分が魚を掛けた一匹ではありますが、子ども一人で完結した釣果ではありません。親父と親戚のおんちゃんが一緒にいたからこそ、船へ乗り、魚とやり取りし、最後に取り込むことができました。
新聞には私の釣果として載りました。それでも、あの日の一匹は、3人で海へ出た時間の中で生まれたものです。
子どもの頃から続いている釣り
私は幼い頃から釣りを続け、小学生の頃には竿を出すことが日常になっていました。貸し舟での釣りや、親父、親戚のおんちゃんとの釣行も、その中に自然にありました。
現在の私は、オフショアジギングを中心に、青物や大型魚を狙っています。使う道具も釣り方も、当時とは大きく変わりました。ロッドやリール、ライン、ジグ、魚群探知機など、今はさまざまな道具と情報を使って海へ出ます。
しかし、魚が掛かるかもしれない時間を待つことや、目の前の仕掛けに集中すること、魚を最後まで取り込む緊張感は、昔も今も変わらない部分があります。3人のウキが並び、「どれが当たるかな」と話していた時間も、今の船上で魚の反応を待っている時間も、根本にある楽しさは似ているのかもしれません。
今回のキツウオは釣りの原点ではありません。けれど、子どもの頃から続いてきた釣りの時間を、分かりやすい形で今へつないでくれる一匹です。
釣り方が変わり、狙う魚が変わり、使う船も変わりました。それでも、魚が掛かった瞬間に集中し、最後まで取り込みたいと思う気持ちは変わっていません。
小学6年生の時に、破れたタモから抜けた魚をもう一度寄せた経験も、現在の釣りと無関係ではありません。最後までつながっていれば、まだ終わっていない。その感覚は、今の大型魚とのやり取りにも通じています。
まとめ|新聞と魚拓に残った、忘れられない一匹
小学6年生の春休み、私は親父と親戚のおんちゃんの3人で貸し舟に乗りました。船は船外機艇で、2級船舶免許を持っていた親父が操船しました。小型のグレなどを釣りながら迎えた終盤、3人のウキが海面に並びました。私のウキは真ん中でした。
「どれが当たるかな」
そんな話をしていた時、真ん中のウキが消し込みました。掛かったのは、全長60センチ、重量3.7キロのキツウオでした。
取り込みでは、親父が船に備え付けられていたタモですくいました。しかし、タモは破れていて、魚が穴から一度抜けてしまいました。
終わったと思いました。
それでも、魚は外れず、ハリスも切れませんでした。もう一度寄せ、今度こそ無事に取り込むことができました。
この一匹は新聞に載り、魚拓は二枚取られました。一枚は今も実家に残り、もう一枚は貸し舟屋の食事処のような場所に飾られていました。
当日のことを、すべて覚えているわけではありません。むしろ、覚えていない部分の方が多くあります。それでも、並んだ3人のウキ、真ん中のウキが消えた瞬間、破れたタモから魚が抜けた時の「終わった」という感覚、そして切れずにもう一度寄せられたこと。この場面だけは、今も鮮明に残っています。
私はこの一匹を、釣りの原点とは呼びません。この魚を釣るより前から、釣りはすでに私の日常だったからです。ただ、子どもの頃に釣った魚の中で、新聞、写真、二枚の魚拓にまで残った一匹は、そう多くありません。
記憶は薄れても、記録は残ります。そして、残された記録をあらためて見ることで、忘れていた時間の一部が戻ってくることがあります。
60センチ、3.7キロのキツウオ。破れたタモから一度抜け、それでも最後までつながっていた一匹。何十年たっても、これは私の子どもの頃の釣りの中で、忘れられない記録です。



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